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大正八年浅草観音劇場の出し物

雜誌『改造』1930年9月号に高田保「浅草『歌劇』華かなりし頃」という隨筆が掲載されている。高田が大学卒業後、所謂ペラゴロとなって浅草公園の興行街で漂泊生活を送った挙げ句に浅草オペラの代表的劇場であった金龍館の文芸部にいた時代の回顧的なエッセーである。それは獏與太平こと古海卓二のことから始まり、大正八年の観音劇場の奇妙な一座の話へと筆を進めている。ちょっと引用しておこう。

 樂屋の入口に、こんな文句が麗々と貼出されてあつたものだ。 「刑事その他官憲關係の者一切無斷立入るを許さず、これを犯すものは頭の上から水をぶつ掛けらるべし」  しかもこれに、堂々と署名して「獏與太平」——この獏さんといふのは、いま映畫界でしきりにイデオロギー映畫を作り出しては檢閱當局と喧嘩をしてゐる古海卓二君である。  大正八年の二三月の頃で、公園六區、觀音劇場にとても妙な歌劇一座が現はれた。その名は何と言つたか忘れてしまつたが、とにかくその顏觸れの中に澤田柳吉、竹內平吉、大津賀八郞はいゝといして、辻潤佐藤惣之助、陶山篤太郞、小生夢坊、その他舞臺には到底緣の無かりさうな連中が、ずらりと庵看板をあげたものだつた。  オペレツトで「トスキナア」というふものを出した。筋は何でも、一人のスリがゐて、これが赤と黑のマントか何かを羽織つて、盛んに懷中物をスつて步く。スるのは人間の自由でスられるのが馬鹿なのだといふ「哲學」をそいつが唄つて、合唱の女達が彼に賛成し、彼を取卷いて、彼の名を讃え、「トスキナアこそわれらが英雄」といふやうな事を唄ひ出すのだつた。  ところで讀者諸君、この奇怪な英雄の名を、試みに倒さまにして讀んでみなさるがいゝ。——アナキスト。  これが彼等の「洒落」だつたのか「本氣」だつたのかは僕は知らない。がみんなは一端アナキストだつた。樂屋中こぞつて酒を飮んで、こぞつて醉拂つて、そしてこぞつて貧乏した。  貧乏しながら、泡を吹いて議論をした。

ところで、この観音劇場の奇妙な一座のことなのだが、稀覯本の世界というサイトの辻潤のページに観音劇場大正八年の第一回公演(5月6日)と第二回公演(5月14日)のプログラムがあるのを見つけた。

観音劇場大正八年第一回公演

https://kikoubon.com/asakusaopera2.jpg

観音劇場大正八年第二回公演

https://kikoubon.com/asakusaopera1.jpg

おお、二、三月でなくて五月だが、確かに辻潤佐藤惣之助、陶山篤太郞、小生夢坊といった連中が一座を組んで芝居をしている。第一回の出し物はヂヨン・ミルグトン・シング(ジョン・ミリントン・シング)の「谿間の影」であるが、未来派創作者諸氏とついているのは何だろう。演者が未来派創作者だという意味なのか。第二回の出し物は高田のいうとおりゴーリキーの「どん底」だが、その中の一場(旅の宿Ⅲ)だけを演じたようだ。ペペル役は佐藤大魚となっている。高田はペペルは佐藤惣之助が演じたといっているので、おそらくこれは惣之助の別名なのだろう。釣り好きの惣之助らしい別名ではある。

さて、第一回に獏與太平作コミックオペラ「トスキナ」も掛かっている。が、高田の言っている「トスキナア」とはちょっと違って「トスキナ」である。そして違いはそれだけにとどまらない。高田によれば、主人公の掏摸の名がトスキナアで、掏摸の哲学を歌い上げ、皆が彼を英雄として讃えるといった筋立てなのだが、プログラムを見ると、確かに掏摸が主人公ではあるが、トスキナはそれとは別の人物である。高田は10年ほど前のことを回想しているのだから、記憶違いがあるのだろう。これについては、中野正昭さんの『トスキナ』伝説‐浅草オペラと大正期アヴァンギャルド演劇に関する一考察という論考が参考になる。それによると、「トスキナ」の台本では、トスキナはアナーキストどころか町の法政を司る権力者であるらしい。そして、掏摸に鑑札を与える代わりに、掏摸がその技量の対価として金品を盗み取ることを許可する法令を、トスキナが定めたことによって引き起こされる混乱を面白おかしく描いた笑劇のようだ。この論考、未来派、表現派、ダダが入り交じる大正期アヴァンギャルド芸術についてのなかなか面白い論考なのでご一読あれ。

そういうわけで、高田保の「浅草『歌劇』華かなりし頃」は、間違いもあるだろうし潤色されている可能性もあるが、大正後期の浅草オペラの内側を描いた面白いエッセーなので、これも読んでみてください。

kozats.work

それから稀覯本の世界は、稀覯本の中身を見ることはできなけれど、昔の珍しい雜誌の目次が見れるので、なかなか楽しいサイトです。