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マヴォイスト矢橋公麿は矢橋丈吉だった

『文藝市場』の大正15年4月号に、「硫酸と毒蜘蛛」という何やら変わった戯曲が掲載されていた。作者の名は矢橋公麿。この人、翌月の『文藝市場』5月号に岡田龍夫と連名で「マヴォ大聯盟の再建に就て」というアピールを出している(これは『文藝市場』だけなく他の雑誌にも同時掲載された)ので、マヴォの人だという当たりはついた。大正後期、ダダだの未来派だの構成主義だの流入して美術や演劇、詩を中心とした文芸のモダニズムが一挙に開花したんだけれど、それを牽引した主要な芸術集団の一つがマヴォだ。これは1923年ドイツから帰国した村山知義を中心に結成されたグループで、リノカットやら構成物、立体作品、舞台装置、演劇、ダンス、インスタレーション、詩などの文学作品、はては関東大震災後のバラック建築まで幅広い分野で活動した。この「硫酸と毒蜘蛛」という戯曲もマヴォイスト(マヴォの人たちは自分たちをこう称した)の作品らしく、通常の戯曲とは言えないほど、まあハチャメチャな感じで、1960年代末から70年代始めのアングラ演劇みたいである。興味があれば古雜文庫にアップしたので、それを御覧あれ。

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さて、この作者の矢橋公麿についてググっていたら、明治以降の現代版画を扱っている版画堂さんのサイトに近代日本版画家名覧というのがPDFで公開されていて、そこに矢橋公麿が立項されていた。

それによると、本名は丈吉、1903年岐阜県の生まれで、幼時に一家で北海道雨竜郡に移住、開拓民となる。雨竜尋常小学校を卒業後は開拓に従事していたが1920年に兄とともに上京。1923年マヴォに参加、機関誌『マヴォ』にリノカット、構成物、隨筆などを発表していた。1925年の萩原恭次郎の詩集「死刑宣告」にもリノカットが二点掲載されている。1925年にマヴォが休止すると、岡田龍夫らと「マヴォ大聨盟再建に就て」と題するアピールを公表してマヴォ復活を図る。その後は『太平洋詩人』『文藝解放』『バリケード』『単騎』『悪い仲間』『文藝ビルデング』『自由聨合新聞』『黒色文藝』『矛盾』などのアナーキズム文芸雑誌に詩や散文を発表した。1933年にオリオン社勤務。1940年にオリオン社が出版部門を独立させて大和書店を創業すると、そちらへ移り戦時下の出版に従事する。戦後1946年に組合書店を創業し1964年に没するまで出版事業に取り組んだ。死没の少し前に自叙伝叙事詩「黒旗の下に」を発表している。

へえ、矢橋公麿というのは、あの組合書店の矢橋丈吉さんだったのか。ぼくは組合書店の発行人の矢橋丈吉という人が1964年に亡くなったことは、以前に調べて知っていたのだ。というのはアナーキストでテロ活動で死刑になった古田大次郎の「死刑囚の思ひ出」(1948年組合書店刊)に、田戸正春の覚え書の次に追補として矢橋が発刊の経緯や編輯について書いていたので、調べてみたのだ。あのときは矢橋丈吉をただの出版者としか見てなかったので、マヴォの人だとは知らなんだ。

マヴォを含む大正期新興美術運動については、日本近代美術史サイト五十殿利治:大正期新興美術運動の概容と研究史長門佐季:大正期新興美術運動における空間意識について滝沢恭司:分化から終焉へなどを参考にするとよい。

それから、野本聡:自慰と尖端ー「マヴォ」とその周圏という論文で、『マヴォ』第4号に掲載された矢橋公麿の構成物「私のオナニ」の画像が見れるよ。

岡田龍夫について(おまけ)

ことのついでに、マヴォの過激派とよばれ、三科展に乗り込んで騒ぎを起こして三科を解散に追い込み、結果としてマヴォの活動休止をもたらした岡田龍夫という人のこともチョコット書いておく。この人も近代日本版画家名覧に立項されている。

"1904年頃、北九州生まれか。"とあるので、生年等はあまり明確にはわかっていないらしい。1920年頃、東京銀座の切抜通信社に勤務。1923年マヴォが結成されると、当初はこれに対抗し、村山知義批判を展開していたが、その後マヴォに参加し、展覧会やダンス等のパ フォーマンス、建築装飾、雑誌発行などで村山に協力。萩原恭次郎の詩集「死刑宣告」の装幀・挿絵・誌面構成を担当した。1926 年にマヴォ運動の継続をはかって「マヴォ大聯盟再興に就て」と題する声明文を発表した。その後牧寿雄らと関西で、舞台模型映画セット展覧会やマヴォ創作舞踊発表会などを開催してマヴォイストとしての活動を継続。さらに街頭漫画屋と称し、似顔絵かきとしても活動した。1928年にはリノカットによるタブロイド版画報誌『形成画報』を創刊。 1930 年代に満洲に渡り、その後、京城でフリーの記者として活動したらしいが、以降消息不明。

岡田龍夫は、日本版のWIkipediaでは立項されていないが、英文のWIkipediaにはTatsuo Okadaが立項されていて、そこには

Tatsuo Okada (岡田竜夫, Okada Tatsuo) (1900–1937) was a Japanese avant garde artist, illustrator, graphic designer, typographer editor and a member of the radical Japanese performance group, Mavo.

とある。これでみると1900年生まれ、1937年没なのだが、はたしてどうなのだろう。レファレンスには

Weisenfeld, Gennifer (Autumn 1996). "Mavo's Conscious Constructivism: Art, Individualism, and Daily Life in Interwar Japan". Art Journal. 55 (3). Retrieved 31 July2020

が挙げられているが未確認。