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宮嶋麗子——迷える資夫の妻

宮嶋麗子は、麗子と書いて「うらこ」と読む。本名はうら。初期のプロレタリア作家で「坑夫」を書いたアナーキスト宮嶋資夫の妻である。この人、婦人記者のはしりの一人であり、婦人解放の評論を書いているのだが、もう今では無名に近い。派手なところのない人で、発表された評論も少なく、成書もないので、それも致し方なかろう。

ぼくがこの人を知ったのは、大杉榮と荒畑寒村がやっていた雑誌『近代思想』の復刻によってである。『近代思想』は1914年に一旦廃刊に追い込まれたが、翌1915年10月に第2次『近代思想』として復活し4号まで続く。この復活『近代思想』に宮嶋資夫とともに宮嶋麗子の名が現れる。同じ宮嶋姓なので夫婦かなと思ったら、やはりそうだった。『近代思想』の復活号の後書には次のような記述があったのだ。

寒村と僕とがやつてゐた平民講演會は、貸席の方を警察からの干涉でことわられたので、遂に小石川區水道町の舊水彩画硏究所を貸り切る事にした。そして其處を『平民倶樂部』と名づけて、宮嶋資夫君夫婦に住んで貰つた。これは隨分大きな家なので、何れは圖書館も設け、其他いろいろと勞働者の倶樂部的組織をつくる考であつたのだが、これが亦家主と地主からの苦情で、遂に移轉の止むなきに至つた。で、其近所に家を借りて、其處に僕一家が住み、講演會も其處でやり、そして宮嶋君は『近代思想』の發行人として郡部の調布に移轉した。ここで平民倶樂部の企ても當分思ひとまつた。奧付にある宮嶋信泰と云ふのは資夫君と同一人であり、麗子君と云ふのは同君の細君である。

宮嶋麗子はほぼ無名の人とはいえ、完全に忘れさられたわけではない。『近現代日本女性人名事典』、『日本アナキズム運動人名事典』などで立項されてもいるし、秋山清が『婦人公論』に書いた「埋もれた婦人運動家(1)宮嶋麗子」(秋山清著作集第7巻所収)や森まゆみが『本の話』に書いた「大正快女伝(15)宮嶋麗子——迷いすぎる男を夫に選んだ」(後に「断髪のモダンガール」所収)などの記事がある。また当然のことであるが、宮嶋資夫が最晩年に書いた自伝「遍歴」には、麗子のことが多く語られている。

生涯

宮嶋麗子、結婚する前の名は八木うら、1890年7月東京で生まれ。「遍歴」によれば、八木家は犬山藩の家老の家柄だが、父親が浪費家で早くに亡くなったので、生活は困窮し、旧藩の人々の支援を受けていた。うらは、宮田脩が校長を務める成女学校を卒業すると、萬朝報を出していた朝報社の雑誌『婦人評論』の記者となり、八木麗子名義で記事を書いている。1914年には、青鞜社を離れた尾竹紅吉が神近市子らと創刊した『番紅花サフラン』の同人となり、妹の八木さわ(後に翻訳家となり、八木さわ子名義でドーデなどの翻訳を行った)と共に作品を発表している。『番紅花』はおそらく一年で終わったと思われる。

そして、うらは、宮田脩の主宰する哲学の会で、宮嶋資夫と知り合い恋におちる。宮田脩は麗子の母校、成女学校の校長だったので、その会に麗子が参加していたのは不思議はない。しかし、なぜ宮嶋資夫が参加していたのか。資夫は十代の頃、さまざな職を転々としていたが、一時歯科医になろうと塾に入ったことがある。そこの講師に宮田脩がいて知り合ったようだ。資夫が古本屋の商売を始めたのも宮田のアドバイスだった。麗子と資夫はデートを重ね、そのうち、麗子は妊娠する。宮田の強い奬めもあって、二人は1914年に結婚した。だが、朝報社の社長の黒岩涙香はこの「できちゃった婚」を許さず、麗子は朝報社を退社させられる。資夫が当時参加していた大杉榮のサンジカリズム研究会にも、夫婦で出席するようになった。大杉らが第一次『近代思想』を廃刊した後に発行した『平民新聞』では、街頭宣伝に参加し、麗子も妊娠7ヶ月の体でダンボールをぶらさげてサンドウィッチマンをやったそうである。そして第二次『近代思想』が復活すると、前述のように宮嶋資夫はその発行人となり、夫婦はこれに参画していった。

1916年、資夫は「坑夫」を出版するが、直ちに発禁処分となる。同じ頃、自由恋愛主義者だった大杉榮は、正妻の堀保子と金銭的支援者でもあった神近市子、辻潤の妻であった伊藤野枝との多重的恋愛関係を続けていたが、同年11月に神近市子が大杉榮を刺すという葉山日陰茶屋事件が起こる。麗子が神近とは懇意だったこともあり、神近に同情的であった宮嶋夫妻は、これを期に大杉と袂を分かった。

麗子は、その後、時折『婦人公論』などに稀に執筆するものの、六人の子供の育児と貧しい家計の遣り繰りに追われ、家庭に逼塞する。「埋もれた婦人運動家(1)宮嶋麗子」を書いたアナーキスト詩人秋山清は、この頃の麗子に会ったことがある。引用しておく。

宮嶋麗子には私も面識がないではない。しかし逢ったのは大正の終りから昭和のはじめに、住居していた牛込の若松町の古びた二階家の、その階下の一室であった。宮嶋資夫は坐って酒をのんで、傍らに乳飲子を抱いて麗子夫人が座っていた。このはじめの時の印象が永くのこって、いつもこの夫妻はそこにそうして向き合っていたように思い出され、しかし、うわさにきいた喧嘩早い人ではなく物しずかな資夫であり、その伴侶にふさわしい存在だという思いが今にいたるまでのこっている。といっても綿入半纏のどこからか綿がはみ出ていたり、一本のキセルで夫妻が煙草をのんでいたり、生活の影はかなりに暗く見えた。そのなかで、にこやかに何かと若いわれわれの質問にこたえてくれる資夫に比べて、麗子の方はいくらかきびしい態度で、ほとんど無口に終始していたように思い出される。

宮嶋資夫は、やがて思想的行き詰まりの中で煩悶し、酒と喧嘩に明け暮れる荒んだ生活をするようになる。挙げ句に縋り付くように仏教に救いを求め、ついには1930年妻子を捨てて出家してしまう。麗子は、仏門に入りたいという夫を引き止めることなく送り出した。同年7月の『婦人公論』に「夫を仏門に送りて」という一文を書いている。資夫の伴侶であり、同志であり、また本人以上にその理解者であった麗子は、もはや彼の懊悩が見ていられなかったのだろう。こう書いている。

 一たび其處に思ひ到ると、當つてくだけるまでは、いかにしても心を轉換し得ないのが彼といふ男です。私もこれ以上、彼と共に苦しみ、倶に惱むには堪えません。私は竟に勸めて、彼に最後の決心を促したのです。

そしてこの一文は、こう結ばれている。

同棲十七年、お互ひに第一期の苦鬪は終りを告げました。明るい正しい人生を創造するために、新たなる熱情をもつて、それ〴〵の途に力强く進出しなければなりません。

これは、夫の去った後の家庭を何としても守り抜くという麗子の決意表明なのだろう。生活を支えるために麗子は再び勤めに出る。最初は帝都日日新聞社、次いで実業之世界社で『実業之世界』の編集に携わった。しかし過労がたたってかついに肺を病み、渥美半島に転地療養し小康を得て帰京したが、1937年5月13日に死去した。

著作

宮嶋麗子の著作について、ぼくが知る範囲のものを挙げておく。

  • 八木麗子:花屋になつた牧師の夫人(『婦人評論』1913年3月)
  • 八木麗子:女優の生活 =松井須磨子様のお話=(『婦人評論』1913年5月)
  • 八木麗子:山上より(『婦人評論』1913年6月)
  • 八木うら:二人の歌(短歌)姉のうた(『番紅花』1914年3月)
  • 八木麗 :『ピヱールとジヤン』を読みて(『番紅花』1914年4月)
  • 八木麗 :別れの手紙(小説)(『番紅花』1914年6月)
  • 八木麗 :C夫人の或る朝(小説)(『番紅花』1914年8月)
  • 宮島麗子:『女の話』の著者に与ふ(『反響』1915年5月)
  • 宮嶋麗子:避妊と堕胎(感想)(『近代思想』1915年10月)
  • 宮嶋麗子:母親の悲哀(感想)(『近代思想』1916年1月)
  • 宮嶋麗子:婦人自ら解放せよ(『新公論』1916年1月)
  • 宮島麗子:現代女學校教育に對する女學生側の不平(『婦人公論』1916年7月)
  • 宮島麗子:流行文芸に心酔する現代青年の心理(『新社會』1916年9月)
  • 宮島麗子:良人が若し不品行をしたなら(『女の世界』1921年6月)
  • 宮島麗子:即座の感興=一家婦の生涯(『婦人公論』1927年1月)
  • 宮島麗子:酒六題=正月なし(『婦人公論』1927年2月)
  • 宮島麗子:「問題の怪寫眞」を見た刹那の感想(『婦人公論』1927年3月)
  • 宮島麗子:子供のお辯當(『婦人公論』1927年11月)
  • 宮島麗子:重寳な年末年始の贈答品(『婦人公論』1927年12月)
  • 宮島麗子:夫を佛門に送りて(『婦人公論』1930年7月)
  • 宮島麗子:民間療法巡り(『婦人公論』1930年12月)
  • 宮島麗 :黄金を探す彼氏等の内幕(『実業の世界』1933年2月)

古雜文庫では以下の作品が読める

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