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宮嶋麗子——迷える資夫の妻

宮嶋麗子は、麗子と書いて「うらこ」と読む。本名はうら。初期のプロレタリア作家で「坑夫」を書いたアナーキスト宮嶋資夫の妻である。この人、婦人記者のはしりの一人であり、婦人解放の評論を書いているのだが、もう今では無名に近い。派手なところのない人で、発表された評論も少なく、成書もないので、それも致し方なかろう。

ぼくがこの人を知ったのは、大杉榮と荒畑寒村がやっていた雑誌『近代思想』の復刻によってである。『近代思想』は1914年に一旦廃刊に追い込まれたが、翌1915年10月に第2次『近代思想』として復活し4号まで続く。この復活『近代思想』に宮嶋資夫とともに宮嶋麗子の名が現れる。同じ宮嶋姓なので夫婦かなと思ったら、やはりそうだった。『近代思想』の復活号の後書には次のような記述があったのだ。

寒村と僕とがやつてゐた平民講演會は、貸席の方を警察からの干涉でことわられたので、遂に小石川區水道町の舊水彩画硏究所を貸り切る事にした。そして其處を『平民倶樂部』と名づけて、宮嶋資夫君夫婦に住んで貰つた。これは隨分大きな家なので、何れは圖書館も設け、其他いろいろと勞働者の倶樂部的組織をつくる考であつたのだが、これが亦家主と地主からの苦情で、遂に移轉の止むなきに至つた。で、其近所に家を借りて、其處に僕一家が住み、講演會も其處でやり、そして宮嶋君は『近代思想』の發行人として郡部の調布に移轉した。ここで平民倶樂部の企ても當分思ひとまつた。奧付にある宮嶋信泰と云ふのは資夫君と同一人であり、麗子君と云ふのは同君の細君である。

宮嶋麗子はほぼ無名の人とはいえ、完全に忘れさられたわけではない。『近現代日本女性人名事典』、『日本アナキズム運動人名事典』などで立項されてもいるし、秋山清が『婦人公論』に書いた「埋もれた婦人運動家(1)宮嶋麗子」(秋山清著作集第7巻所収)や森まゆみが『本の話』に書いた「大正快女伝(15)宮嶋麗子——迷いすぎる男を夫に選んだ」(後に「断髪のモダンガール」所収)などの記事がある。また当然のことであるが、宮嶋資夫が最晩年に書いた自伝「遍歴」には、麗子のことが多く語られている。

生涯

宮嶋麗子、結婚する前の名は八木うら、1890年7月東京で生まれ。「遍歴」によれば、八木家は犬山藩の家老の家柄だが、父親が浪費家で早くに亡くなったので、生活は困窮し、旧藩の人々の支援を受けていた。うらは、宮田脩が校長を務める成女学校を卒業すると、萬朝報を出していた朝報社の雑誌『婦人評論』の記者となり、八木麗子名義で記事を書いている。1914年には、青鞜社を離れた尾竹紅吉が神近市子らと創刊した『番紅花サフラン』の同人となり、妹の八木さわ(後に翻訳家となり、八木さわ子名義でドーデなどの翻訳を行った)と共に作品を発表している。『番紅花』はおそらく一年で終わったと思われる。

そして、うらは、宮田脩の主宰する哲学の会で、宮嶋資夫と知り合い恋におちる。宮田脩は麗子の母校、成女学校の校長だったので、その会に麗子が参加していたのは不思議はない。しかし、なぜ宮嶋資夫が参加していたのか。資夫は十代の頃、さまざな職を転々としていたが、一時歯科医になろうと塾に入ったことがある。そこの講師に宮田脩がいて知り合ったようだ。資夫が古本屋の商売を始めたのも宮田のアドバイスだった。麗子と資夫はデートを重ね、そのうち、麗子は妊娠する。宮田の強い奬めもあって、二人は1914年に結婚した。だが、朝報社の社長の黒岩涙香はこの「できちゃった婚」を許さず、麗子は朝報社を退社させられる。資夫が当時参加していた大杉榮のサンジカリズム研究会にも、夫婦で出席するようになった。大杉らが第一次『近代思想』を廃刊した後に発行した『平民新聞』では、街頭宣伝に参加し、麗子も妊娠7ヶ月の体でダンボールをぶらさげてサンドウィッチマンをやったそうである。そして第二次『近代思想』が復活すると、前述のように宮嶋資夫はその発行人となり、夫婦はこれに参画していった。

1916年、資夫は「坑夫」を出版するが、直ちに発禁処分となる。同じ頃、自由恋愛主義者だった大杉榮は、正妻の堀保子と金銭的支援者でもあった神近市子、辻潤の妻であった伊藤野枝との多重的恋愛関係を続けていたが、同年11月に神近市子が大杉榮を刺すという葉山日陰茶屋事件が起こる。麗子が神近とは懇意だったこともあり、神近に同情的であった宮嶋夫妻は、これを期に大杉と袂を分かった。

麗子は、その後、時折『婦人公論』などに稀に執筆するものの、六人の子供の育児と貧しい家計の遣り繰りに追われ、家庭に逼塞する。「埋もれた婦人運動家(1)宮嶋麗子」を書いたアナーキスト詩人秋山清は、この頃の麗子に会ったことがある。引用しておく。

宮嶋麗子には私も面識がないではない。しかし逢ったのは大正の終りから昭和のはじめに、住居していた牛込の若松町の古びた二階家の、その階下の一室であった。宮嶋資夫は坐って酒をのんで、傍らに乳飲子を抱いて麗子夫人が座っていた。このはじめの時の印象が永くのこって、いつもこの夫妻はそこにそうして向き合っていたように思い出され、しかし、うわさにきいた喧嘩早い人ではなく物しずかな資夫であり、その伴侶にふさわしい存在だという思いが今にいたるまでのこっている。といっても綿入半纏のどこからか綿がはみ出ていたり、一本のキセルで夫妻が煙草をのんでいたり、生活の影はかなりに暗く見えた。そのなかで、にこやかに何かと若いわれわれの質問にこたえてくれる資夫に比べて、麗子の方はいくらかきびしい態度で、ほとんど無口に終始していたように思い出される。

宮嶋資夫は、やがて思想的行き詰まりの中で煩悶し、酒と喧嘩に明け暮れる荒んだ生活をするようになる。挙げ句に縋り付くように仏教に救いを求め、ついには1930年妻子を捨てて出家してしまう。麗子は、仏門に入りたいという夫を引き止めることなく送り出した。同年7月の『婦人公論』に「夫を仏門に送りて」という一文を書いている。資夫の伴侶であり、同志であり、また本人以上にその理解者であった麗子は、もはや彼の懊悩が見ていられなかったのだろう。こう書いている。

 一たび其處に思ひ到ると、當つてくだけるまでは、いかにしても心を轉換し得ないのが彼といふ男です。私もこれ以上、彼と共に苦しみ、倶に惱むには堪えません。私は竟に勸めて、彼に最後の決心を促したのです。

そしてこの一文は、こう結ばれている。

同棲十七年、お互ひに第一期の苦鬪は終りを告げました。明るい正しい人生を創造するために、新たなる熱情をもつて、それ〴〵の途に力强く進出しなければなりません。

これは、夫の去った後の家庭を何としても守り抜くという麗子の決意表明なのだろう。生活を支えるために麗子は再び勤めに出る。最初は帝都日日新聞社、次いで実業之世界社で『実業之世界』の編集に携わった。しかし過労がたたってかついに肺を病み、渥美半島に転地療養し小康を得て帰京したが、1937年5月13日に死去した。

著作

宮嶋麗子の著作について、ぼくが知る範囲のものを挙げておく。

  • 八木麗子:花屋になつた牧師の夫人(『婦人評論』1913年3月)
  • 八木麗子:女優の生活 =松井須磨子様のお話=(『婦人評論』1913年5月)
  • 八木麗子:山上より(『婦人評論』1913年6月)
  • 八木うら:二人の歌(短歌)姉のうた(『番紅花』1914年3月)
  • 八木麗 :『ピヱールとジヤン』を読みて(『番紅花』1914年4月)
  • 八木麗 :別れの手紙(小説)(『番紅花』1914年6月)
  • 八木麗 :C夫人の或る朝(小説)(『番紅花』1914年8月)
  • 宮島麗子:『女の話』の著者に与ふ(『反響』1915年5月)
  • 宮嶋麗子:避妊と堕胎(感想)(『近代思想』1915年10月)
  • 宮嶋麗子:母親の悲哀(感想)(『近代思想』1916年1月)
  • 宮嶋麗子:婦人自ら解放せよ(『新公論』1916年1月)
  • 宮島麗子:現代女學校教育に對する女學生側の不平(『婦人公論』1916年7月)
  • 宮島麗子:流行文芸に心酔する現代青年の心理(『新社會』1916年9月)
  • 宮島麗子:良人が若し不品行をしたなら(『女の世界』1921年6月)
  • 宮島麗子:即座の感興=一家婦の生涯(『婦人公論』1927年1月)
  • 宮島麗子:酒六題=正月なし(『婦人公論』1927年2月)
  • 宮島麗子:「問題の怪寫眞」を見た刹那の感想(『婦人公論』1927年3月)
  • 宮島麗子:子供のお辯當(『婦人公論』1927年11月)
  • 宮島麗子:重寳な年末年始の贈答品(『婦人公論』1927年12月)
  • 宮島麗子:夫を佛門に送りて(『婦人公論』1930年7月)
  • 宮島麗子:民間療法巡り(『婦人公論』1930年12月)
  • 宮島麗 :黄金を探す彼氏等の内幕(『実業の世界』1933年2月)

古雜文庫では以下の作品が読める

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マヴォイスト矢橋公麿は矢橋丈吉だった

『文藝市場』の大正15年4月号に、「硫酸と毒蜘蛛」という何やら変わった戯曲が掲載されていた。作者の名は矢橋公麿。この人、翌月の『文藝市場』5月号に岡田龍夫と連名で「マヴォ大聯盟の再建に就て」というアピールを出している(これは『文藝市場』だけなく他の雑誌にも同時掲載された)ので、マヴォの人だという当たりはついた。大正後期、ダダだの未来派だの構成主義だの流入して美術や演劇、詩を中心とした文芸のモダニズムが一挙に開花したんだけれど、それを牽引した主要な芸術集団の一つがマヴォだ。これは1923年ドイツから帰国した村山知義を中心に結成されたグループで、リノカットやら構成物、立体作品、舞台装置、演劇、ダンス、インスタレーション、詩などの文学作品、はては関東大震災後のバラック建築まで幅広い分野で活動した。この「硫酸と毒蜘蛛」という戯曲もマヴォイスト(マヴォの人たちは自分たちをこう称した)の作品らしく、通常の戯曲とは言えないほど、まあハチャメチャな感じで、1960年代末から70年代始めのアングラ演劇みたいである。興味があれば古雜文庫にアップしたので、それを御覧あれ。

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さて、この作者の矢橋公麿についてググっていたら、明治以降の現代版画を扱っている版画堂さんのサイトに近代日本版画家名覧というのがPDFで公開されていて、そこに矢橋公麿が立項されていた。

それによると、本名は丈吉、1903年岐阜県の生まれで、幼時に一家で北海道雨竜郡に移住、開拓民となる。雨竜尋常小学校を卒業後は開拓に従事していたが1920年に兄とともに上京。1923年マヴォに参加、機関誌『マヴォ』にリノカット、構成物、隨筆などを発表していた。1925年の萩原恭次郎の詩集「死刑宣告」にもリノカットが二点掲載されている。1925年にマヴォが休止すると、岡田龍夫らと「マヴォ大聨盟再建に就て」と題するアピールを公表してマヴォ復活を図る。その後は『太平洋詩人』『文藝解放』『バリケード』『単騎』『悪い仲間』『文藝ビルデング』『自由聨合新聞』『黒色文藝』『矛盾』などのアナーキズム文芸雑誌に詩や散文を発表した。1933年にオリオン社勤務。1940年にオリオン社が出版部門を独立させて大和書店を創業すると、そちらへ移り戦時下の出版に従事する。戦後1946年に組合書店を創業し1964年に没するまで出版事業に取り組んだ。死没の少し前に自叙伝叙事詩「黒旗の下に」を発表している。

へえ、矢橋公麿というのは、あの組合書店の矢橋丈吉さんだったのか。ぼくは組合書店の発行人の矢橋丈吉という人が1964年に亡くなったことは、以前に調べて知っていたのだ。というのはアナーキストでテロ活動で死刑になった古田大次郎の「死刑囚の思ひ出」(1948年組合書店刊)に、田戸正春の覚え書の次に追補として矢橋が発刊の経緯や編輯について書いていたので、調べてみたのだ。あのときは矢橋丈吉をただの出版者としか見てなかったので、マヴォの人だとは知らなんだ。

マヴォを含む大正期新興美術運動については、日本近代美術史サイト五十殿利治:大正期新興美術運動の概容と研究史長門佐季:大正期新興美術運動における空間意識について滝沢恭司:分化から終焉へなどを参考にするとよい。

それから、野本聡:自慰と尖端ー「マヴォ」とその周圏という論文で、『マヴォ』第4号に掲載された矢橋公麿の構成物「私のオナニ」の画像が見れるよ。

岡田龍夫について(おまけ)

ことのついでに、マヴォの過激派とよばれ、三科展に乗り込んで騒ぎを起こして三科を解散に追い込み、結果としてマヴォの活動休止をもたらした岡田龍夫という人のこともチョコット書いておく。この人も近代日本版画家名覧に立項されている。

"1904年頃、北九州生まれか。"とあるので、生年等はあまり明確にはわかっていないらしい。1920年頃、東京銀座の切抜通信社に勤務。1923年マヴォが結成されると、当初はこれに対抗し、村山知義批判を展開していたが、その後マヴォに参加し、展覧会やダンス等のパ フォーマンス、建築装飾、雑誌発行などで村山に協力。萩原恭次郎の詩集「死刑宣告」の装幀・挿絵・誌面構成を担当した。1926 年にマヴォ運動の継続をはかって「マヴォ大聯盟再興に就て」と題する声明文を発表した。その後牧寿雄らと関西で、舞台模型映画セット展覧会やマヴォ創作舞踊発表会などを開催してマヴォイストとしての活動を継続。さらに街頭漫画屋と称し、似顔絵かきとしても活動した。1928年にはリノカットによるタブロイド版画報誌『形成画報』を創刊。 1930 年代に満洲に渡り、その後、京城でフリーの記者として活動したらしいが、以降消息不明。

岡田龍夫は、日本版のWIkipediaでは立項されていないが、英文のWIkipediaにはTatsuo Okadaが立項されていて、そこには

Tatsuo Okada (岡田竜夫, Okada Tatsuo) (1900–1937) was a Japanese avant garde artist, illustrator, graphic designer, typographer editor and a member of the radical Japanese performance group, Mavo.

とある。これでみると1900年生まれ、1937年没なのだが、はたしてどうなのだろう。レファレンスには

Weisenfeld, Gennifer (Autumn 1996). "Mavo's Conscious Constructivism: Art, Individualism, and Daily Life in Interwar Japan". Art Journal. 55 (3). Retrieved 31 July2020

が挙げられているが未確認。

大正八年浅草観音劇場の出し物

雜誌『改造』1930年9月号に高田保「浅草『歌劇』華かなりし頃」という隨筆が掲載されている。高田が大学卒業後、所謂ペラゴロとなって浅草公園の興行街で漂泊生活を送った挙げ句に浅草オペラの代表的劇場であった金龍館の文芸部にいた時代の回顧的なエッセーである。それは獏與太平こと古海卓二のことから始まり、大正八年の観音劇場の奇妙な一座の話へと筆を進めている。ちょっと引用しておこう。

 樂屋の入口に、こんな文句が麗々と貼出されてあつたものだ。 「刑事その他官憲關係の者一切無斷立入るを許さず、これを犯すものは頭の上から水をぶつ掛けらるべし」  しかもこれに、堂々と署名して「獏與太平」——この獏さんといふのは、いま映畫界でしきりにイデオロギー映畫を作り出しては檢閱當局と喧嘩をしてゐる古海卓二君である。  大正八年の二三月の頃で、公園六區、觀音劇場にとても妙な歌劇一座が現はれた。その名は何と言つたか忘れてしまつたが、とにかくその顏觸れの中に澤田柳吉、竹內平吉、大津賀八郞はいゝといして、辻潤佐藤惣之助、陶山篤太郞、小生夢坊、その他舞臺には到底緣の無かりさうな連中が、ずらりと庵看板をあげたものだつた。  オペレツトで「トスキナア」というふものを出した。筋は何でも、一人のスリがゐて、これが赤と黑のマントか何かを羽織つて、盛んに懷中物をスつて步く。スるのは人間の自由でスられるのが馬鹿なのだといふ「哲學」をそいつが唄つて、合唱の女達が彼に賛成し、彼を取卷いて、彼の名を讃え、「トスキナアこそわれらが英雄」といふやうな事を唄ひ出すのだつた。  ところで讀者諸君、この奇怪な英雄の名を、試みに倒さまにして讀んでみなさるがいゝ。——アナキスト。  これが彼等の「洒落」だつたのか「本氣」だつたのかは僕は知らない。がみんなは一端アナキストだつた。樂屋中こぞつて酒を飮んで、こぞつて醉拂つて、そしてこぞつて貧乏した。  貧乏しながら、泡を吹いて議論をした。

ところで、この観音劇場の奇妙な一座のことなのだが、稀覯本の世界というサイトの辻潤のページに観音劇場大正八年の第一回公演(5月6日)と第二回公演(5月14日)のプログラムがあるのを見つけた。

観音劇場大正八年第一回公演

https://kikoubon.com/asakusaopera2.jpg

観音劇場大正八年第二回公演

https://kikoubon.com/asakusaopera1.jpg

おお、二、三月でなくて五月だが、確かに辻潤佐藤惣之助、陶山篤太郞、小生夢坊といった連中が一座を組んで芝居をしている。第一回の出し物はヂヨン・ミルグトン・シング(ジョン・ミリントン・シング)の「谿間の影」であるが、未来派創作者諸氏とついているのは何だろう。演者が未来派創作者だという意味なのか。第二回の出し物は高田のいうとおりゴーリキーの「どん底」だが、その中の一場(旅の宿Ⅲ)だけを演じたようだ。ペペル役は佐藤大魚となっている。高田はペペルは佐藤惣之助が演じたといっているので、おそらくこれは惣之助の別名なのだろう。釣り好きの惣之助らしい別名ではある。

さて、第一回に獏與太平作コミックオペラ「トスキナ」も掛かっている。が、高田の言っている「トスキナア」とはちょっと違って「トスキナ」である。そして違いはそれだけにとどまらない。高田によれば、主人公の掏摸の名がトスキナアで、掏摸の哲学を歌い上げ、皆が彼を英雄として讃えるといった筋立てなのだが、プログラムを見ると、確かに掏摸が主人公ではあるが、トスキナはそれとは別の人物である。高田は10年ほど前のことを回想しているのだから、記憶違いがあるのだろう。これについては、中野正昭さんの『トスキナ』伝説‐浅草オペラと大正期アヴァンギャルド演劇に関する一考察という論考が参考になる。それによると、「トスキナ」の台本では、トスキナはアナーキストどころか町の法政を司る権力者であるらしい。そして、掏摸に鑑札を与える代わりに、掏摸がその技量の対価として金品を盗み取ることを許可する法令を、トスキナが定めたことによって引き起こされる混乱を面白おかしく描いた笑劇のようだ。この論考、未来派、表現派、ダダが入り交じる大正期アヴァンギャルド芸術についてのなかなか面白い論考なのでご一読あれ。

そういうわけで、高田保の「浅草『歌劇』華かなりし頃」は、間違いもあるだろうし潤色されている可能性もあるが、大正後期の浅草オペラの内側を描いた面白いエッセーなので、これも読んでみてください。

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それから稀覯本の世界は、稀覯本の中身を見ることはできなけれど、昔の珍しい雜誌の目次が見れるので、なかなか楽しいサイトです。

檜六郎って誰なのさ

これは2017年のことなのでちょっと古い話である。

昭和初期の『改造』や『文戰』に檜六郎って人が社会時評的な記事を書いているのに遭遇した。ネットで検索をかけてみても、この檜六郎さん、どいう人なのかさっぱりわからなかった。そのとき、ふっと思いついて市立図書館のレファレンス・サービスというものを利用してみることにした。すると答が返ってきた。それによると、檜六郎は小牧近江(本名:近江谷駉)の実弟の島田晋作(旧名:近江谷晋作)の筆名だということで、1901年生まれで1950年死没、戦後には日本社会党公認の衆議院議員を務めたとのこと。

レファレンス・サービスの有難味がよくわかった。一番知りたかったのは没年なんだけどね。これで檜六郎は古雜文庫で取り上げることができた。

内田巌「秋刀魚の話」の中の檜六郎=島田晋作

その後、内田魯庵の長男の画家、内田巌の「秋刀魚の話」という随筆を古雜文庫に登録したが、その中に

……後に文士になつて一時文名を謳はれ天折した池谷信三郞、社會黨の代議士になつた檜木六郞こと島田晋作、フアーブル詩人の平野威馬雄、藝妓と心中した天才ピアニスト近藤柏次郞、言語學者の時枝、アラヽギの澁谷嘉次、フランス哲學の高山峻、農民經濟の鈴木小兵衞達は皆同級だつたし、上級には小牧近江、アルピニストの船田三郞、故東屋三郞、土方與志、長谷川路可、下級には渡邊一夫、山川幸世、佐野磧、風間道太郞等がゐた。よく考へると一癖も二癖もある恐るべき子供達だつたわけである。

……肉筆雜誌が發行された。私の最後迄の親友として先日死んだ後藤眞二、島田晋作、池谷信三郞、高山峻で島田の番町の家に編輯部を作つた。その頃島田は近江谷晋作で民政黨の代議士近江谷榮次の息子だつた。島田と池谷はその頃の私の相棒だつた。後藤と池谷が文章が圖拔けて上手で、繪は永井が巧く表紙は永井が描いた。

……後藤と鈴木は志賀是枝伊藤好道なぞのゐた當時の新人會に行き私は島田に誘はれて種蒔く人のプロレタリア文藝運動の靑年部に參加した。

 という記述があり、内田巌と島田晋作は暁星小学校・中学校の友人で、内田巌は島田の誘いで「種蒔く人」に参加していたことがわかる。

この「秋刀魚の話」という隨筆、子供時代の食ひ物の話も多いのだが、幸徳事件の話やら暁星小学校の癖の強そうな同級生の話などもあってなかなか面白いと思う。

ところで、実は「秋刀魚の話」のことを書いているうちに、甚だこっ恥ずかしい誤りをしでかしているのに気がついた。なんと表題の表記を「秋刀魚の味」と誤記していたのだ。その他にも底本が島田晋作が民主黨の代議士と誤記していることにも気がついた。ほんとは社會黨が正しい。「秋刀魚の話」は内田巌「絵画青春記」(NDLのデジタルコレクションで読むことができる)に収録されてて、こちらでは社會黨となっているので、これに合わせて修正し、訂正版を登録した。気が向いたら読んでみてくだされ。

檜六郎に言及がある論文

檜六郎は、現在では殆ど忘れられた評論家であり、あまり言及されることもないのであるが、二つ目に止まったので揚げておく。

占領開拓期文化研究会という研究会があって、これは”1920~60年代の〈占領と開拓〉に関する問題系に焦点を当て、現在に繋がる往時の記憶/経験/感情を文学テキスト・映像フィルムから掘り起こすことを目的として活動している研究会”なのだが、その機関誌「フェンスレス」がオンラインで公開されている。その第二号(2014年6月20日)所収の鳥木圭太:プロレタリア文学の中の植民地主義――伊藤永之介「万宝山」を読むの中に、ハリコフ会議の農民文学決議を受けて、ナルプと対立関係にあった労農芸術家連盟(労芸)側の論考として檜六郎「農民作家の「用意」についての走り書」が取り上げられている。

もう一つは「秋田大学教育文化学部研究紀要 人文科学・社会科学」第72集(2017年3月1日)所収の山崎義光:1930 年前後における経済小説の萌芽 ― プロレタリア文学派と新興芸術派との接近 ―に伊藤永之介の小説集「恐慌」に対する檜六郎のブックレビューが取り上げられている。

何故かどちらも伊藤永之介の小説に関連しているのは、何かの緣か

 

 

 

はじめに

ぼくは古雜文庫という古い雑誌や古本のパブリック・ドメインになったテキスト作品をEpub形式で公開するサイトをやっている。古雜の雜は雜誌の雜でもあるが、雜駁の雜でもあって、まだ200件程度の小さいサイトであるが特に決まったテーマがあるではなく、実に雜然とした品揃えである。

古い雜誌等をネタにしていると、さまざまな著者に出くわすのであるが、ぼく浅学にして、日本の近代文学近現代史に詳しいわけではなく、どちらかと言えば門外漢に等しいので、まるで知らない人であることが多々ある。パブリック・ドメインを対象としている以上、著者の経歴、特に没年が気になるところである。今はインターネットという便利な仕組みがあるとはいえ、Wikipediaコトバンクに立項されていれば楽なのだが、そうでなければ検索かけたり図書館を利用して調べまわらなくてはならない。

このメモランダムは、著者の調査結果などを書き留めておくことにする。開示しておけば、ひょっとすると多少は誰かの役に立つかもしれないし、また何か情報をいただけるかもしれないからね。